ダウン症(染色体異常)を持つ子供さんを授かった家族の方へ
私は大津市内で障害児(支援を必要としている人)の歯科治療を積極的に行っている歯科開業医です。障害のある兄がいることが障害児の歯科治療をするきっかけとなりました。 もう50年以上前のことになります。それは私が生まれる前の出来事です。例年にない大雪の日、集団で列を作って帰宅する幼稚園児の列に凍てついた坂道をスリップしてきたオ-トバイがつっこみ、たまたま列の一番後ろにいた兄がそのオ-トバイに数十メ-トル引きずられ道路わきの大きな石で頭を強打し頭蓋骨陥没骨折となりました。すぐに病院に運ばれましたがしばらくして危篤状態となり、両親は交代で一年近く意識の戻らない長男の看病のために徹夜で病院に泊まり込むことになったのです。 ある日、医師で父の親しい友人あり重度の障害の子どもがいる先生が目に涙をいっぱい浮かべながら、もう彼に栄養を与えている管を抜いてあげたらどうですかといったそうです。事故後、何か月も意識が戻らない長男を前にして友人の先生は勇気をふりしぼって敢えて父に言われたと思います。万が一この子が意識を回復したとしても普通の生活はできないでしょう。脳の中に骨片が無数に散らばっています。もし意識が戻ったとしても重度の障害が残ります。そうなると家族の負担は考えられないほど大きくなり、その子自身も家族も不幸になるのではないかと。両親はこんな苦しい選択があっていいものかと悩み抜いたそうです。そして出した結論は次のようなものでした。もしここで長男を死なせてしまったら自分は一生後悔をして生きていかなければならない。どんな障害が残ってもいいから一緒に生きて生活していこうと。今が一番苦しいときだからこの時期を乗り越えて頑張って生きていこうと思ったそうです。しばらくして兄は奇跡的に意識を回復し、その後数回の脳の手術、手足の機能回復の手術を行いました。その後、長期間のリハビリの毎日が続きました。私が物心ついたときにはすでに兄はかなり回復し人の手を借りながらも何とか日常の生活ができるようになっていました。事故から50年以上たった現在でも睡眠中は時折、脳の障害のためにけいれんを起こし気管に唾液がつまり窒息状態になります。そのときは体を傾け顔を横にし、唾液で気管が詰まらないような体位にしてけいれんがおさまるのを待ちます。現在に至るまで兄は多くの方の支援を受けてきました。そして今は作業所に勤務をしています。私たち家族は今も兄を中心として強いきずなで結ばれています。それは何事にも変えがたい幸せなことだと日々感じています。障害の種類、程度によって対応の違いはあると思いますが、障害を持つ方、その家族にとって毎日の生活にはさまざまなご苦労、ご心労があると思います。そのような中でどのような気持ちを持って生活をすればよいのか。小児科の開業医であった私の父が生前、障害児を持つ親として北大津養護学校の保護者の方にお話をさせていただいたときの文章の抜粋です。ご紹介します。
「障害を持つ子供を育てていると親なりに障害児の存在意義を、そして、また親は障害を持つ子にとってどういう生き様を示したらよいだろうかと考えざるを得なくなってきます。障害を持つ子は家庭的にも社会的にも不幸な存在であり、周囲を不幸にするものであり社会的に損失である。という考え方があります。いったい不幸とは誰が決めるものだろう。命とは何かの問題につながります。私ども障害を持つ子の親としてはこういう差別的な考え方にどのように答えそれを乗り越えていったらよいでしょうか。そこで改めて障害児の存在意義を考えて見ますと、生きること自体に悪戦苦闘しているくらいの重症な障害児の親ほど抱えている問題は大きいでしょう。精神的のみならず肉体的にも疲労困憊します。でもその疲れた生活の中でも子供の将来にかすかでも可能性を信じ、また見出すような努力をし、それにより生きる価値を見出すことは尊いことです。けれどもそれだけで問題解決につながっていくでしょうか。子供が成長するにつれて成長の喜びが苦しみや悩みに変わっていくようなことは無いでしょうか。子供の成長につれて親がだんだん暗い気持ちになり学校を出てからの問題、将来の不安が増し、子供の世話に疲れ果てて家庭崩壊ということもあります。どのような障害児の子供の親も共通して言えることは親の亡き後子供はどうなるのだろうか。というところに突き当たるでしょう。いろんな社会保障の問題が出てくるわけです。小さいお子さんの間は親はそれほど悲観的ではありませんが、子供が大きくなってくると大きくなるにつれてなんとなく子供も親もあきらめがもたげてくる。しかし人間はどんなときにもあきらめてはいけない。あきらめずに明日がきたら今よりよくなることを信じましょう。力を出そう。少しでも自分を変えるように思い直しましょう。日常の生き方を工夫しましょう。障害児の問題については昨日より今日、今日より明日とすこしずつですが社会の価値観を変えるように力をあわせましょう。」 (昭和59年原文のまま)
親として兄弟としての立場の違いがありますが同じ家族として気持ちはまったく同じです。私は障害を持つ家族の方と出会うとその障害が重度であればあるほど毎日の生活の大変さを思います。そして、さまざまな思いがこみ上げてきます。あきらめないで明日を信じることは尊いことです。子どもの可能性を信じていろんなことを経験しましょう。そして、子どもの成長を喜び気持ちを分かち合いましょう。あなたの周囲にあなたやあなたの子どもさんを支援する人は必ずいます。支援してくれる人を探しましょう。支援者を探すことを手伝ってもらいましょう。私も皆さんの支援者の一人です。そして相談しましょう。語り合いましょう。共通の話題を持つものが語り合うことの大切さを経験しましょう。語り合うことによって楽しさや、悩みを共有できます。そして、語り合うことによって将来への希望と勇気が持続していくのです。
障害を持つ方たちが障害の種別、軽重を問わず安心して暮らしていく世の中は現在の超高齢社会の中ですべての人が安心して暮らしていける世の中につながります。近江学園の創設者である糸賀一雄先生は福祉にかける思いを、「この子らを世の光に」という言葉で表されました。そこには重い障害のある子どもたちこそ、世の人々に命のたくましさ、大切さを気付かせてくれるすばらしい存在であるというメッセージがこめられています。この思いは多くの人の心に伝わっていくと信じています。そして、そのような気持ちを持つ社会こそがすべての人が安心して暮らしていける世の中の実現を可能にしていくのです。
障害者を取り巻く環境は財政面を含めてさらに厳しくなることが予想されまるで土砂降りの雨の様相を呈しています。障害を持つ方、その家族は必死で傘をさしてその土砂降りの雨の中を進んでいるように思います。傘(支援する人または組織)には長所短所があり個性があります。一つだけの傘(支援する人または組織)で障害を持つ方の人生のステージをすべて受け入れることは難しいと思います。これからは社会全体でそれぞれが持っている傘(支援する人または組織)のよいところを集めて、互いに協力して、そして時に傘(支援する人または組織)を交換して厳しい雨の中を歩いていかなければなりません。そしていつの日か雨の降らない晴れた社会になってほしいものです。そのために私たちは社会に向けてのアピールと活動を続けていく必要があります。 ダウン症(染色体異常)を持つ子供さんを授かった家族の方へだけでなく、障害児を持つ子どもさんを授かったすべての家族へのメッセージと受け取っていただければ幸いです。
現在、光吉歯科医院には多くのダウン症の方が継続して通院しています。20年以上健康を維持することを目的に定期的に通っている方もいます。ダウン症の方は全身的な特徴にくわえて口腔には成長に合わせた変化が起きてきます。それに対応して歯科治療を進めなくてはいけません。今まで歯科治療を受けるときに戸惑ったことはありませんか。あるいは食べることに関して困ったことはありませんか。出来るだけ早い時期からかかりつけの歯科医を作ることによって口腔の健康を維持することができます。ご相談がありましたらいつでもご連絡ください。
最後になりましたが、子供たちが成長するためにいろんなことを教えましょう。時間がかかってもいいです。そして思いっきり抱きしめてほめてあげましょう。ゆっくりとあせらず、子どもが成長する過程を喜び分かち合いましょう。わが子を「障害児」ではなく「支援を必要としている子ども」としてとらえ子どもの最大の支援者となるよう日々さまざまなことを経験していきましょう。そしてあなたの周りにいる多くの支援者と知り合いになりましょう。それが最大の支援者である親そして家族の役割です。