2016年『中高ひまわりの会』の活動のアンケート調査より

子供が成長し中学・高校生になってくると生活ステージも大きく変化していき、子供に対する親の思いも幼い頃に感じたこととはまた違う思いを抱くようになります。
そんな親たちの“今”感じているストレートな思いをお届けします。

『中高ひまわりの会』の親たちの思い・・(2016年『中高ひまわりの会』の活動のアンケート調査より)

『目の前の宝物』

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私には、1歳9ヶ月のダウン症の娘がいます。
告知の時は、あまりにショックで真っ暗なトンネルにひとり取り残されたような感覚でした。しかし、私には幼い頃の素敵な思い出がありました。

小学5,6年生の時、同じクラスに女の子のダウン症の友達Hちゃんがいました。みんなと一緒に授業を受けたり、特別支援学級で学んだりしていました。私たちは、特別支援学級まで遊びに行き、一緒にクラスに帰ることもありました。おしゃべりが大好きで伝わらないこともありましたが、みんなこれが言いたいのかな?この子の名前を言っているのかな?と考えながら会話をしていました。伝わった時には、私たちも嬉しくてHちゃんも嬉しそうでした。Hちゃんの誕生日会でお家へ何度も遊びに行かせてもらいました。お母さんが用意してくれたケーキや料理を食べながら、Hちゃんは生まれたての弟を抱っこして嬉しそうに「私の弟」と見せてくれていました。気付けば、Hちゃんの周りには人がいて自然と笑顔になり出来る事は挑戦してみたり、一生懸命取り組んでいる姿にクラスみんなが心打たれていたのだと思います。

この頃の私たちは、Hちゃんに対して特別ということはなく、みんなと同じように出来ることや出来ないことがある中で過ごしてきました。
この小学5,6年生の2年間は本当に今でも忘れることはなく、私たちに学ぶことを教えてくれたかけがえのない日々でした。大人になった今でも、急にお家へ行ったり鍋を食べたりしています。結婚式にも来てくれ、会うたびにとても素敵で、けな気な女性になっています。小さい頃のHちゃんの姿が今の私にとって我が娘を育てていく上での大きな希望となっています。

どうしてもあれもこれもしなくてはと焦っている自分がいる時もあります。悩んでいた時、発達相談の先生からこんな言葉を頂きました。
「私に付いて台所まで来たり絵本や手遊びを一緒にする何気ない日常生活こそが成長につながっているから目の前の宝に気付いてください」
この言葉を聞いて娘自身を見つめ直していました。すると、こんな事に興味がありもっと歌って欲しいと訴えている事に気付き、娘も私も本当に楽しく毎日を過ごしています。これからも、悩んでは考えて一歩ずつ一歩ずつ家族で歩んでいきたいです。産まれて来てくれて、心からありがとう。

『ひまわりの会 会員 S』

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ダウン症児を授かって・・・

大きな木の写真

私には、現在4歳になる息子がいます。
出産後間もなくLDRのベッドの上でダウン症の告知を受けました。
妊娠前、そして妊娠中は、自分がダウン症の子どもを生むなんて、夢にも思いませんでした。
妊娠中は、22週で切迫早産といわれましたが、張り止めの薬を飲みながら産休に入るまで仕事を続けることができました。
そして、37週になり張り止めの薬の処方が終わるとすぐに陣痛がきました。
出産のときは、回旋異常によりお産が進まなくなり、鉗子分娩での経膣分娩となりました。
取り上げられてすぐに「はい、抱っこ!」と言われ、子どもを私の腕に乗せられましたが、そのときは痛みで子どもの姿を見る余裕もありませんでした。
子どもはすぐに「計測に行きます。」と言われ、連れて行かれました。
産後の処置が終わり、次はカンガルーケアの予定でした。

LDRに医師と看護師が入ってきたので、てっきり子どもを連れて来たのだと思ったのですが、そうではありませんでした。
「子どもはダウン症です。呼吸状態が悪いので別の病院のNICUに搬送します。」
突然、医師からそう告げられたのです。
『ダウン症』言う言葉に、私は、頭を思いっきり殴られたような衝撃を受けました。
そして、朦朧とする頭で必死にその根拠を医師に問いました。
低緊張、猿線、顔の特徴、耳の位置、手足が短い・・・そのようなことを言われましたが、一瞬抱いただけのわが子に、それがどれだけ当てはまっているかなんて分かりませんでした。

しばらくすると救急車のサイレンの音が聞こえてきました。
日赤の新生児搬送車が迎えに来たのです。
「見送ってあげてね」と言われ、LDRを出ると、クベースに入れられたわが子が白衣を着た人達に連れて行かれる様子が目に入り、それをぼんやりと見送りました。
出産に立ち会っていた主人も、あとを追うように、赤十字病院のNICUに入院手続きなどをするために向かい、私はひとりクリニックに残されました。
子どもがどういう状況なのが全く分からず、ダウン症に対する知識もほとんどない状態の中で、「死んでしまうの?」という不安が湧き上がってきました。
頭の中では、主人の両親や義妹や甥に対して、親族の中に障害者を生んでしまったという、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
そして、わが子や自分たちの将来を思うと、そこに色はなく、暗い世界が広がっているよう思えました。

子どもを育ていく決心は、すぐにつきました。
それは、子どもを自分が生んだ責任だから仕方がないと思ったのです。
絶望のような決心でした。
いろいろな思いが頭の中を駆け巡りましたが、前日の夜から陣痛が始まり、朝方に出産したため、とても疲れていたので、私はそのまま眠りに落ちました。
次に目を覚ましたときに、主人は戻ってきていました。
主人から、NICUでの入院や治療に関する説明を聞いているとき、小さな揺れを感じました。
それは、東日本大震災の揺れでした。
こんな離れている場所でも揺れを感じたので、被災地域ではどんなに大きな揺れだったのでしょうか。
テレビをつけて、大変なことが起こったと感じました。
そして、入院中に見たテレビのニュースで、「家も、家族も、何もかも流されてしまった。これから、どうやって生きていけばいいか分からない。」と、泣き叫ぶ高齢の女性の姿を見ました。
そのとき、私は、自分が何ひとつ失ってはいないことに気がついたのです。
そして、自分よりももっと大変な目に遭われた方のことを考えると、泣き言を漏らせないと思いましたが、ひとりになると涙をこらえることはできませんでした。

産後3日目、クリニックの医師より外出許可が出ました。
NICUのわが子に会いに行っていいと言われたのです。
会いたいという気持ちはほとんどありませんでしたが、親の責任として会いに行きました。
クベースの中のわが子を見ても、何の実感もありませんでした。
ペットショップのガラスケースの向こうの子犬を見るような感覚でした。
ダウン症の特徴を探してしまいましたが、よく分かりませんでした。
NICUにはたくさんの赤ちゃんがいるので、誰かが取り違えてダウン症じゃない赤ちゃんがうちに来たらいいのに、なんてことを思いました。
でも、クベースの中の赤ちゃんは、小さな頃の私にそっくりな顔をしていました。
取り違えられてもすぐに分かると思い、それは諦めました。
産科クリニックを退院した日、その足でNICUに向かいました。
その日から子どもが退院するまでの5週間、欠かすことなく毎日NICUに通いましたが、子どもに対する愛情というわけではありませんでした。
それは、意地のようなものでした。

NICUを退院して我が家にやって来た日の夜、夜中に目を覚ますと、私の隣で寝ているはずの息子の目が開いていることに気がつきました。
手を開いたり閉じたりしていたので、そっと私の指を差し出すと、思いがけず強い力で握ってきたのです。
そして、「あー、あー」と声を出しました。
そのとき、私は、初めての感じる感情があふれ出てきたことを実感しました。
それは、きっと母性だったのだと思います。
責任とかではなく、大切に育てていこうと、自然と思えました。
でも、息子に対して愛情を持てるようになってからも、私は障害に対する受容ということで悩み続けていました。
息子の将来を思うと、明るい希望なんてものは見えず、暗い闇の中に取り残されているような気持ちになり、大きな不安がつきまといます。
ワイワイ教室やひまわりの会に参加するようになり、少しずつ未来への展望が見えるようになってきましたが、やはりダウン症を受け入れることは難しく感じていました。
当時の私は、完璧な受容こそが、完璧な親になるということだと思い込んでいました。
1歳の誕生日を迎え、私は仕事に復帰し、息子は保育園に入園しました。
仕事の復帰は、私に良い意味で悩む時間を奪ってくれました。
保育園では、定型発達の子どもたちに囲まれ、刺激をいっぱい受けて、息子はどんどん元気に成長していきました。
いつの間にか、完璧な受容ということで悩まなくなり、暗い絶望の闇からも抜け出していました。
そこには、同じ境遇の友達や先輩方との出会いが大きく影響していたと思います。
同じ悩みを抱えた友達、それを乗り越えてきた先輩方の姿は、私の大きな支えとなりました。
そして、今思えば、『完璧な受容』=『完璧な親』なんていうのは大きな勘違いで、親というものに『完璧な親』なんてものはなく、いつまで経っても子どもには悩まされるものだと思います。
現に、私もこの歳になっても、親に心配ばかりかけています。
そして、私は4歳のイヤイヤ期真っ只中の息子と格闘の日々です。
育児は、障害があろうとなかろうと、定型発達の子どもですら、大変なことには違いない。
きっとこれから先もずっと子どもの心配ばかりして歳をとっていくのでしょうね。
そういう当たり前の未来が私の目の前に見えます。

『ひまわりの会 会員 N.M』

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産まれて来てくれてありがとう

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私の次男はダウン症で、発達も遅く、これから小学校に入学するというのにまだ言葉もちゃんと出ていませんが、毎日ニコニコ笑顔満開で、元気いっぱい外を駆け回ったり、ピョンピョン跳ねて嬉しいことを伝えたり、保育園のお友達とも一緒に楽しく遊ぶこともできて、本当に楽しそうに毎日を過ごしています。
なにより、私に毎晩寝る前に「だ~いちゅき!」と言ってくれる、本当に可愛くて可愛くて、愛しい愛しい息子です。
今ではそんなに愛しい息子がお腹の中にいるとき、私は、どうか産まれて来ないで!と、お腹の中で死んでくれないだろうかと、本当に酷いことばかり考えて、毎日毎日泣いて過ごしていて、今思えば、あの時の私は無知で偏見に満ちている酷い母親でした。
今でも時々息子の寝顔を見ながら涙することがあります。
ゴメンね・・・と。

妊娠・出産は幸せなもので大きな歓びだと、長男を産んだときに知りました。
ダウン症の次男を産んだときには、妊娠・出産は辛くて悲しくて、歓びばかりではないのだなと・・・あの頃は私の人生の暗黒時代です。
私が二人目の子供を授かった時、長男はまだ1歳7か月で、パパの転勤で家族3人、東北の秋田に住んでいる時でした。
「羊水過多症かも」妊娠8か月を迎える頃、秋田の産婦人科の先生に異常を伝えられました。
その時はまだ、「よくあることだから、そんなに心配しないで」と言われたので、それほど深刻に捕らえなかったのですが、翌日、隣町の大きな総合病院まで検査を受けに行くと、「胎児の腸や心臓に異常が見られ、このままではすぐに切迫早産として入院になるだろうから、里帰り出産を考えているならば、一日でも早く地元に帰りなさい」と言われました。
そこからはまるで坂を転がり落ちるような急展開。
私は翌日すぐに長男と二人で実家のある京都に帰り、病院に行くと、秋田のお医者様に言われた通り、即日入院になりました。
まだまだ小さい長男を実家の父母に預け、ダンナは秋田に残し、お腹の赤ちゃんには異常があるかも…不安だらけの入院初日でした。
京都での検査でも、やはり胎児の腸と心臓に疾患が見られると言われました。
またその場合、染色体異常の胎児の可能性もあると言われ、羊水検査を勧められました。
最初に羊水過多と診断されてすぐに自分でもネットなどで調べた時に、染色体異常の可能性があること、染色体異常でよく知られているのがダウン症だということを目にしていたので、お医者様に説明された時に、もしかしてダウン症の赤ちゃんなのかも?と、嫌な予感しかしませんでした。
出産直後に万全の医療体制で臨めます、というお医者様の言葉で羊水検査を受ける決心をし、何も異常が無いことだけをただただ祈って数日過ごしていましたが、「21トリソミーでした」と検査結果を伝えられ、21トリソミー(ダウン症)についての説明をされました。
金槌で頭を殴られたような衝撃を受けました。
自分自身は今まで大病をすることなく健康で生きてきて、長男も超がつくほど健康優良児なのに、お腹の中の赤ちゃんが障害を持って産まれてくるということが信じられませんでした。
それから出産までの約2か月、何も希望が持てず悲観ばかりして、この点滴を外したら流産しないかな、とか、お腹を叩いたら赤ちゃん死なないかな、とか、ぐずぐずといつまでも悪いことばかり考えて過ごし、まったく前向きになれず、他に入院している妊婦さんを羨んでみたり、秋田から帰ってきたパパに向かって「産みたくない!」と泣きついてみたり、いつまでも担当の看護師さんに心配をかけて、厄介な妊婦だなと思われていたことでしょう。
そんな酷いママのお腹の中で、息子は元気いっぱいお腹を蹴って生きていることを主張して、それがまた辛くて辛くて・・・。
産まれて来たいんだな~って思ってまた泣きました。

いよいよ出産となった時、胎児の心拍が弱いということで緊急帝王切開になりました。
手術室に向かう私を、私の両親はとても心配そうに見送っていました。
手術台に乗せられた時、恐怖で身体がガタガタと震えだし、涙が止まらなくなり、そばにいた助産師さんが手を強く握って励ましてくれました。
手術はあっさりと終わり、産まれたばかりの次男をすぐに見せてくれたのですが、長男の時よりも力強く泣いていて、生命力が溢れているように見えました。
これから厳しい世界で生きていかないといけないのに、生まれてきちゃったんだな~と思いました。
「出産おめでとう」と言ってくれたのは、病棟でずっと私を支えてくれていた看護師さん達だけでした。
次男は十二指腸閉塞とファロー四徴症という心臓疾患があり、生まれて翌日に腸の手術を受けることになっていたので、すぐにNICUでの入院になりました。
私だけが先に退院することになったのですが、次男を病院に残していくことを心配する気持ちよりも、やっと病院から出て長男の元に帰れるという嬉しさの方が大きかったです。

その後病院に母乳を届ける毎日を過ごし、生まれてから1か月半後にようやく退院して実家に連れて帰ったのですが、心臓の手術をすることが決まっていたので、家族全員が腫れ物を扱うように次男に接していました。

しばらく実家で過ごした後、秋田での仕事を辞めて帰って来たパパの地元、大津に移り住むことになり、大津の保健師さんよりダウン症親の会ひまわりのことを聞きました。
最初は全く参加する気持ちになれなかったのですが、心臓の手術を控えていたこともあり、何か情報が得られるかもと思い、春の会に参加させて頂きました。
すると、参加されていたメンバーの皆さんがとっても明るく、色々と悩みはありつつも楽しく子育てされているような様子で、正直私はカルチャーショックを受けたくらいびっくりしました。
くよくよメソメソ悩んでいる自分を恥ずかしく思うほどでした。
私が自分の子供のことを話す番になり、正直に、我が子を可愛く思えないこと、妊娠中に酷いことを考えた事、これからの事が不安で仕方ないこと、ダウン症の子供を育てているのに皆さんがどうしてそんなに笑っていられるのか理解できないこと、思っていることを全てぶちまけて泣きました。
私の話を聞いて、先輩ママさん達は「私たちも同じだったよ~!」「みんなが最初は泣いて苦しんだよ~」「酷いことも考えたことあるよ~!」と、そこからご自身のお子さんの小さい時の話など沢山してくださいました。
みんな泣いて、悩んで、でも子供が成長していくに連れて子供自身が元気になり、ママ自身も子育てを楽しめるようになっていったと、みんなが通って来た道だと教えて下さいました。
同じダウン症の子供を持った親だからこそ理解し合えること、私はひまわり会の先輩ママさん達に初めて自分の真黒な気持ちを受け止めてもらえて、心が浄化されたように救われました。

その後、次男はファロー四徴症の手術を受ける為に京大付属病院に入院し、術後の経過が悪く、一時息子が危篤状態になり、「死なないで!!」と強く願い、妊娠中に死んで欲しいと一度でも考えた事を初めて大きく後悔しました。
幸い、ペースメーカーを植え込むことで回復し、少し入院期間が長引きましたが元気になりました。
この入院期間では、子供に付き添って病院で過ごしているたくさんの同士的ママ友ができ、色んな病気や障害を抱えている子供がいること、その子供をしっかり支えている家族の姿を見ることができ、本当に私にとって良い勉強になりました。
退院してからは、次男はやまびこ園という療育施設に通うようなり、先生方にたくさん可愛がってもらうことでメキメキと元気になり、療育を終えた後には3年間保育園で健常のお友達と一緒に過ごし、いまはしっかりやんちゃな男の子に成長しました。
療育園と保育園に通った約4年半で、息子はたくさんの先生やお友達に愛され、受け入れてもらい、息子自身が好きなこと、好きなもの、好きな人がたくさん増えました。
本当に毎日楽しそうで、息子を見ているだけで笑顔になってくれる人もたくさんいて、私も毎日息子と一緒にいることで癒され、幸せな気持ちになります。
こんなに可愛い子供は他にいないんじゃないかと思うくらい愛しいです。
息子がお腹の中にいるときの私は、障害を持って産まれたら不幸なことばかりが待っているように思っていました。
他の人からも愛されたり、支えられたりすることも考えられませんでした。
息子自身が生きていることを楽しめるなんて想像することもしませんでした。
何も知らなかったから怖がって、悲観ばかりしてしまっていたのだと思います。
あの時の私は本当に無知で偏見に満ちた人間でした。
母親失格でした。
でも、あの時にたくさん泣いたからこそ、今が本当に幸せに感じるのかもしれません。

ダウン症の息子を授かったからこそ出会えた人がたくさんいます。
本当にたくさんの人に支えてもらい、私は前を向くことができました。
息子のおかげで、知らなかった事がたくさんあったことにも気付かせてもらえました。
息子が生きていてくれるからこそ、私も家族も笑顔いっぱいで暮らしていられます。
息子が産まれた時には言えませんでしたが、今は心から思います。
「私の子供として産まれて来てくれて、ありがとう!大好きだよ!!」

『ひまわりの会 会員 Y.M』

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結音(ゆうと)がうまれて・・・

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妊婦検診後に妻から電話がかかってきて、もしかしたら子どもに障害があるかも・・・と言われた。
それを聞いて僕は、単純にそんなに自分たちは運が悪くないでしょと思った。
自転車で走っている時に携帯が鳴り、その時の妻との会話としてよく覚えている。

長男は「結音」といい、ダウン症を持って生まれてきた。
さっきの考えからすれば、僕たちは運が悪かったわけだ。
でも、それは間違っていた。
僕は28歳で子どもを授かるまでは、ほとんど障害者と関わることがなかった。
親戚に一人重度心身障害者がいたが、いつもよだれをたらしていて、正直怖いなという印象しかなく、彼女はいつのまにか亡くなっていた。
学校でもおそらく障害者はいたはずだが、関わる機会は限られていたし、自分から関わることは全くなかったと思う。
そんな僕に結音が生まれたのだ。
ところで結音ってかっこいい名前でしょ?正直今までみた名前で一番かっこいい。
生まれた時は恐ろしくて小さく(1970グラムだった)宇宙人のような顔をしていた結音。
正直言うと生まれた日には、全くかわいいとは思えなかった。
まあ新生児はこんなもんかな?としか思わなかったが、出産後3時間ほどで大きな病院で検査をする必要があるのでこのまま搬送しますと医者に伝えられた。
狼狽えたが、妻は帝王切開だったため動く事もできず、僕一人が救急車で結音と京都府立大学付属病院に向かった。
京都府立大学付属病院のNICUの先生は、今振り返れば、とてもいい対応をしてくれた。
「心臓に疾患があります。また精密検査が必要ですが、ほぼ間違いなくダウン症です」と告知された。
「ただ、制限はあるかもしれませんが、障害があるからといって、幸せになれないという事ではないので」と主治医は淡々とでも暖かな口調で説明してくれた。
現在の記憶ではショックはなかったとなっているが、おそらくその時点ではショックだっただろうと思う(笑)。
搬送後、結音はNICUに入院となり、歩いて妻がいる産婦人科まで呆然と歩いたことは覚えている。
その間、信頼している二人の弟に電話をして結音が産まれたことを報告し同時にダウン症だということも告げた。
健常児のように競争できない/しなくても自分が好きな事があればそれをやれるような環境を整えてあげたいと僕は弟に言ったそうだ。
その後、スマホで「ダウン症」をググる、ググる。
何しろダウン症について何も知らなかったのだ。
2chのアホみたいな情報からds21というためになる情報を発信してくれるサイトまでくまなく調べ尽くした。
僕は17歳以降、『何かができなくなっても、そのことで別のことができるようになるなら、それをがんばろうぜ』というのがモットーだった。
でもこのモットーは自分用だったのだ。
それを結音にも無意識的に応用したのだと思う(残念ながら結音がこれで楽しいのか嬉しいのかまだ不明なのだが・・・)。
約30分くらいの府立大病院から産婦人科までの道のりで、おそらく僕は父親になる腹をくくったのだと思う。
といっても、はじめはほんとにひどい父親で、結音が1歳になる頃までは、自分ではがんばっていると思い込んでいる、イタイ自称イクメンような、役立たずな父親だった。

親になる前は子どもが親を成長させてくれるというフレーズを聞くと釈然としないなと思っていたが、これはもう絶対的に正しいと痛感した。
成長しないとおそらく子育てはできないよね。
結音が産まれときにちょうど転職をして営業から福祉の世界で働くことになっていた僕は、結音がダウン症として産まれてきた事で、「おー、こういう流れだったんだな」と妙に納得した。
最初の研修で担当した当事者がたまたまダウン症だったことにも、正直運命を感じた。
その方がとても面白くていい人だったのだ。
ダウン症に対する先入観が多少あったかもしれないが、話していて楽しかったし、研修の最後の日には、「また遊びにきてね」とハグしてくれた。
ちょっと泣きそうになったぜ。

「ケア」って、支援者が一方的に当事者に提供するんじゃなくて、循環するんだ。
支援者も人だし、当事者も人だ。
うまくいかないこともあるけれどケアが一方的だとお互いがハッピーになれない。
子育ても、一方的に親が子どもに何かを「してあげる」んじゃなく、親にも子にも何か学んだり感じたりすることがある、双方に良い刺激のあるダイナミックなプロセスなんだと思う。
仕事でも障害者と関わる事は常に『わからない』状況に遭遇する。
その時には想像力を駆使して、どうお互い楽しめるか、それが福祉業界に入って学んだ事だ。
結音と話したり遊んだりしている時も、結音のことが『わからない』状況が多々ある。
でも、それでいいんじゃないかな。
わかるって何よ?って答えられる人あんまり知らないよ。

もちろん子育てでつらい時もあるし、大変なときもある。
でもだからといって子ども達がいない生活はつまらないと思う。
特に僕は、とても警戒心が強いし面倒な性格なので、なかなかいい人間にはなれない。
友達も少ないし、人が大勢いるところにいるのも嫌いだ。
そんな僕でも結音に出会えて多少は他人の事を思いやれるようになったと思うし、何よりやさしくなれた。
毎晩寝る時には、結音にあえてよかったよと必ず話しかけるようにしている。
結音がもう少し話せるようになったら、もっと感謝の気持ちを伝えたい。

最後に、体験談とは離れますが、最後に真面目なことを書きたいと思います。
数年前から新出生前診断が導入されましたが、ダウン症だから不幸ということは本人達には直接関係ないと思います。
親も、障害児の親でも健常児の親でも幸せな時もあるし、つらい時もあると思います。
ダウン症は一定の確率で必ず産まれてきます。
それを排除する社会というのはダサい社会だと思います。
新出生前診断をめぐっては、「効率」や「生産性」が取り上げられます。
社会全体からみたらそういったことももちろん大事でしょう。
でも、社会も経済も右肩上がりに成長出来ない今の社会に必要なのは、「効率」ではなく「共生」だと思います。
弱いもの探しとは、常に弱い人を探し続けなければなりません。
でも、僕たちはいつか自分も弱者になります(産まれてくる時も弱者です)。
その意味で、いろんな人との「共生」が今後ますます重要になると思います。
結音と出会って僕はそのことに気付く事ができました。

サンキュー、結音!!そして弟の桂音と仲良くね☆

『ひまわりの会 会員 Y.M』

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ダウン症の兄と過ごして・・・

大きな木の写真

初めまして。
今年41歳になるごく普通(?)の一般男性です。
普通とちょっと違う点があるといえば、2歳年上の兄がダウン症だということくらいでしょうか。

今回、「昔のことを思い出して、何か書かいて」と話をいただき、書き出そうとしているのですが、記憶が曖昧になってきています。
小学生の頃というと、「41歳-約8歳=約33年前」四半世紀以上前の話になります。
おっさんの昔話と思って、読んでください。

・・・気づいた時の事(小学生)
初めて兄が「他の人と違う」と知ったのは、小学校1年頃でした。
同級生から「なんで、お兄ちゃんは障害児学級(当時の呼び名)に入っているの?」と聞かれましたが、その場で答えることができませんでした。
家に帰り、母に同じ質問をしました。
母からの答えは、「兄の出産のときに時間がかかり、脳に酸素が充分にいかない時間が長くあり、それがきっかけで、障害が残った」というようなものだったと思います。
翌日、私は学校で母から言われた通りに答えました。
同級生は納得したのかどうかは分かりませんが、その後、このような質問をされた記憶はありません。

どの同級生がこの質問をしたのかは忘れましたが、なぜかこの出来事だけは今でも覚えています。
それまで、学童や近所の子たちの中にごく普通に兄がいる環境で過ごしてきましたが、なぜかそのような質問をされたことはありませんでした。
障害者は、今ほどメジャーな存在ではありませんでしたが、ちょっと違う人で済まされていたのでしょうか。
障害児学級があるくらいなので、友達の親にも知識があり、子供にちゃんと説明していたのでしょうか。
それとも、聞くことはタブーだったのでしょうか。
今となっては分かりません。
でも、よく考えてみると、そういうたぐいの質問をされなかったのは不思議です。

あと思い出した事が、1つあります。
当時住んでいた市は福祉に力をいれていたのか、毎年、学校で講演会がありました。
障害をもっている人の家族が講演をするのですが、母が私の通っている小学校で講演をしたのです。
そのときは、子供ながらに恥ずかしかった記憶があります。

・・・中高生
兄は中学から養護学校に行き、兄と私は同じ中学校には通いませんでした。
進路先が別れたことによって、兄のことを知っている人は知っているし、知らない人は知らないという状態になります。
そのことによって、障害者と兄弟だと”意識”すること(なんと表現すべきなのかわかりませんが、”聞かれること”、”気を使われること”と言えばよいのでしょうか・・・)は、学校でなくなりました。

ひとつ印象に残っている出来事があります。
高校受験を控えたある日、母と話をしていたときのことです。
「行く高校によって人生が変わるのか?」という私の質問に、「それはどうかわからないけど、兄が生まれたことによって、大きく人生は変わった」と母は言いました。
私はその返事に失敗してしまいました。
「まだ人生の途中からやからいいやん。こっちは最初からやで!」と、軽い気持ちで言ったのですが、母にはその言葉が響いたようでした。
そこで、話は中断してしまいました。
まだ、その時のことを聞き直していませんが、どう思っていたのでしょう。
親子でも、微妙なラインだったと思います。

それ以外、兄に関しての思い出は特に書き出すようなことはありません。
・・・と、締めくくろうかと思いましたが、一つ大事件が、ありました。
それは、兄が進学して学校が変わりテンションが上がってしまったのか、帰宅してから自転車で遊びに出てしまい、行方不明になった事件のことです。
それまで、何度か行方不明になりかけてことはあったのですが、このときは丸1日帰ってきませんでした。
事件は、夕方、兄がいないことに気づいたことから始まりました。
近所を探しましたが見当たらず結局警察に連絡することとなり、大捜索劇になりました。
両親、近所の人、警察、そして、兄の知人までもが捜索にに協力してくれましたが、その日のうちには見つかりませんでした。
結局、翌日の夕方、在住していた市の隣の京都市内のTSUTAYAで発見されました。

皆さんに多大な迷惑をかけたのですが、この事件で、分かったことがひとつありました。
地元の小学校に兄を通わせた、親の方針は、間違っていなかったということです。
正しいかどうかは判りませんが、親が兄を近所の小学校に通わせたのは、このような子がいるということを周りの人に知ってもらうために行かせたそうです。
当時、その小学校では障害児を持つ親御さんたちが熱心に働きかけ、障害児学級のない小学校に障害児学級を作り、できたての学級に兄は入りました。
当初は、先生も手探りでしたが、軌道に乗りそれなりの学級の形になっていきました。
しかし、熱心だった親御さんの子供たちが卒業していき、兄が5年生になる頃、知的障害者のための学級ではなく、(あえて、そのままの言葉で書きます。表現に語弊があったらごめんなさい)ちゃんと字も書けるし、勉強もできるけど普通学級についていけなくなった子を受け入れるための学級に方針を転換していこうとしていました。
私の親は、養護学校に行くことを何度も進められましたが、それに反抗して、6年間最後まで、地元の小学校に通わせました。
学校側からは、在籍させるけど、勉強は教えないと言われており、本当に見てもらっているだけの状態だったそうです。
私の親が近所の小学校に通わせたことが、本当に正しかったのかどうか分かりません。
しかし、顔を知ってもらっていたことで、事件が早く解決したことは確かです。
情報が多数寄せられました。
正確な意図とは違いますが、そのことで兄を知ってもらえていたということがよく分かりました。

・・・学生時代、就職
この年代になると、もっと兄との関わりが減ってきました。
私が遊び呆けてあまり家に帰らないことと、兄も学校生活を終え就労したことで行動時間が変わり、一緒に過ごすことはほとんどありませんでした。
そして、就職も、兄とは関係ない職業に就きました。

ひとつ思うことは、これくらいの年齢になってくると、話のそらし方が上手くなるというか、兄弟の話になっても、嘘でも本当でもないこと言っている自分がいました。
例えば、お兄さんは、どこで働いているのと聞かれたら、「工場じゃないけど、ライン作業」こういっておけば、これ以上、突っ込んで聞いてくる人は、ほとんどいないのです(正確には、作業所です)。
なぜ、こんなことになってしまっているのかといえば、結局のところ、正直に話すのが面倒くさいというのが”本音”です。
隠したいとは思いませんが、話をすることによって、その場の雰囲気が変わるのが嫌だし、突っ込んで聞いてこられても面倒だし、落としどころがこれになったという感じです。

・・・社会人
就職してからは、仕事が忙しく、兄と関わることがさらに少なくなりました。
私が仕事のある日は、朝は7時に家を出て、夜は12時を回ってから帰ってくるいう生活でした。
実家暮らしでしたが、帰宅して出迎えてくれるのは、当時飼っていた猫だけでした。 話はそれましたが、私の周囲に兄が障害者だと知っている者は皆無に等しく、また、兄がどのような人間であろうと、そのようなことは関係の無い生活環境になっていきました。

大学を卒業してから20年ほど経ちました。
私も、兄も年を取りました。
これまでは、幸い大きな病気をすることはありませんでしたが、注射と病院嫌いの兄ですら病院に行きたくなるぐらい高熱が出た事がありました。

それはタイミング悪く、12月後半でした。
近くの病院に行き、そこで1週間入院をしましたが、病状は良くならず、12月28日に転院。
よくこんな時期に受け入れてくれたものだと思いましたが、転院の翌日はさらに手術となり、それから一か月間入院となりました。
年末に本当に良くしてくれた病院に感謝しています。
この件で思ったことは、「しんどい」と言うことしかできない兄の病気の原因を見つけ、治療してしまうお医者様は偉いと思いました。
また、最近では珍しい症例だったらしく、良い経験にもなった様です。
もうひとつ改めて気が付いたことは兄は、病気に対して頑張りすぎるという点です。
この点から、様子がおかしいと思ったら、とりあえず病院に連れて行くということを親と決めました。
40年以上兄弟ですが、まだ兄について分かっていなかった事があることに気が付きました。

また、話はそれますが、資格を取りたくて、専門学校に通っていたことがありました。
その授業で社会福祉があったのですが、その先生がイケイケで自分に間違いはないとでもいうような物言いをする人でした。
授業のテーマが、ノーマライゼーション(・・・という考え方があるらしく、障害者が不自由なく暮らせる世の中は、健常人にとっても住みやすい。言いかえれば、誰もが、自由に生きられる世の中ということらしい・・・そう解釈しました)で、駅にエレベータが何個ついているとか、映画館で車いす用の席がいくつある、場所はどこかとか、階段のある場所にスロープがついているかなどを調べたが、それらには問題点があり、それを生徒に考えさせるという授業内容でした。

生徒たちからは、「階段を無くしてすべてスロープにしたらいい」とか、「映画館すべての椅子を車いす対応にしたらいい」とか、おもしろみのない意見ばかりが出ました。
でも、ひとりの生徒が、「車いすの人が階段を降りれなくて困っていたら、周りの人が手伝って降ろしてあげたらいいやん」と言いました。
その回答に対して、「急いでいる人を呼び止められる?車いすを持ち上げるのに何人の人が必要なん?」と否定的な言葉が先生の口から出ました。
その生徒は、「友達に車いすの子がいたが、自然に助けてきた」と言いましたが、先生は、「スロープ付けた方が楽だろうと」という返答をしていました。
私には、先生の考え方は『一人で自由に』というのが基本で、生徒の考え方は『障害を持っている人は周囲に助けを求めることができ、周囲の人はそれを自然に助けられる』ということが基本なのだと、そう受け止めました。
甘い考えと思われるかもしれませんが、助けが必要な人は、助けを求めなければいけないし、その要求に対して、周りの人は、できる範囲で応えていかなければいけないと思います。
先生と生徒の意見は、その場では平行線でしたが、結論としては一緒だと思いました。
人が手を差し伸べて助けるのか、設備などによって補助していくのか、ソフトとハードの違いだけです。
私は、その生徒の意見に賛成します。
国や社会が助けの必要な人に支援できるのは、結局のところ、金か物(かたち)となってしまうような気がします。
話がぐちゃぐちゃになってしまいましたが、結論は、助けが必要な人が助けを求められる世の中であってほしいと願います。

・・・結婚
結婚して11年が経ちました。
結婚ということに対して思ったことは、二人だけの兄弟の中で、私しか結婚式を挙げることができなので、結婚式は必ず挙げようということです。
そして、やはり式をしてよかったと今も思っています。

・・・子供が生まれる時
結婚をしてからずいぶん経ってから子供が出来たのですが、流産してしまいました。
1か月位で成長が止まり、そのまま流れたのですが、嫁は薬でも何でも使ってもいいから頑張って妊娠を継続させたかったようでした。
私は、冷たいようですが、この時点でダメだったら、元気に育たないような気がして、子供の力に頼るしかないと思っていました。
ここは、母親と父親(お腹にいるか、いないか)で考えの違いもあると思います。
この時、自分の親とも話しましたが、親も同じような考えでした。
体が弱いということは、親にとっても子供自身にとっても大変なこと。
しかし、一つ一つ乗り越えて、生まれてきた子は、これから困難があっても乗り越えられるような気がすると。
その後、嫁は少し落ち込みましたが、一年後、また子供を授かることができ、今度は、無事に生まれました。
(陣痛からなかなかお産が進まずに、結局、帝王切開になるというハプニングはありましたが)

子供がおなかにいる間の10か月間はずっと不安でした。
検診では順調に育っているとのことでしたが、羊水検査とかした方が、安心できるのではないかとか、でも検査して微妙な判定だったらしない方がよかったと思うのではないだろうとか。
ほかにも、色々とネットで調べる日々が続きました。
その心配がMAXだったのは、やはり生まれてきたその時でした。
元気な声を聞き、顔を、手を、足を、確認しました。
それまで、ネットで調べたことを全てを確認しました。
その横で同じことをしていた人がいました。

私の親でした。
僕が思う前に、「大丈夫」と一人で呟いていました。
「この子は、元気や」と。
結局、みんな、声には出さないだけで、心のどこかで不安に思っていたのでしょう。
これは、うちの家の限ったことではないですが・・・。

それから、股関節が硬かったり、出生後スクリーニング検査で引っかかったり、色々と不安にさせる事が多い子でしたが、後3か月で、3歳になります。
これからもまだまだ心配させられることは沢山あるのでしょう。

・・・現在(今思うこと)
子供の話の続きになりますが、兄は知能的に3歳くらいで、ちょうど息子と同じくらいです。
今は、仲良く(?)遊んでいますが、どう思っているのでしょうか?「遊んでくれるお兄ちゃん」とでも思っているのでしょうか?そのうち、物足りなくなっていくのでしょうか?
いつまで、一緒に遊んでくれるのでしょうか?そして、いつ気付くのでしょうか?その後の変化あるのでしょうか?
興味深いです。

兄はよく息子の面倒をみてくれます。
構いすぎて、嫌がられるほどです。
また兄が旅行に行った時には、息子にお土産を買ってきてくれます。
兄のやさしい一面です。
ちなみに、息子が生まれる前は、よく私にお土産を買ってきてくれました。

これも、子供が生まれて思うのですが、息子がちょっと熱を出したくらいでとても大変なのに、私の親は体の弱い兄を共働きでよく育てたなぁ、とつくづく思います。
まあ、これは親なら誰にも言えることですが・・・。

・・・今後
人間は、毎年、歳を取ります。
当たり前のことですが、兄もまた歳を取ってきました。
これからも歳を取っていきます。
そして親も歳を取ってきました。
現在の兄の状況は、40代、親と同居で、平日は作業所に通っています。
親は、60代後半。
今まで、たまたま大きな病気もせず元気でいますが、いつ何が起きるかわかりません。
ですが、私は親と今後のことを、何も話し合っていないのが現状です。
「なるようにしかならない」というのが、親の考えと昔から知っています。
でも、どうなのでしょう。
他の同じような境遇にいる方は、今後のことについて、話合われているのでしょうか。
結局、今後のことは、何かきっかけがない限り、今は話し合うことは無いと思います。

・・・総括
総括と大きくでましたが、大したことは書けません。
取りあえず、兄弟という立場から、何か書いてくださいとのお話を頂きここまで書いてきましたが、この文章を見られるのは、親御さんでしょうか、それとも、兄弟の方でしょうか。
どう思われたでしょうか。
文章を書くのが苦手な私が書いた文章で、読みにくかったことでしょう。
でも、そこから、何か思うことがあれば、書いた甲斐があったと思います。

ここまで書き続けて、着地点を見失っています。
書き始めた時、兄弟という立場から親に向けての文章が書ければと思い、依頼を受け書き始めました。
「私はこう思っています。では、親は、私に対して、兄に対してどう思っているのか。私は、このように思っていますが、どう思いますか。」というような、自分の親への問いかけ文を書きたかったのです。
でも、いざ書いてみると、ただの生い立ち文になってしまいました。

ここで結論を書きますが、ここまで、約40年生きてきて、色々な出来事、さまざまな節目がありました。
自分なりに、その時々に考えてきたつもりです。
またこれからも、そのような機会があると思います。
その考えが、正しいかったのか、いい方向に向かっていたのか、結論が出るのは、人生が終わるときだと思っています。
その時に、兄の本音をきけるものなら聞いてみたいものです。
結局、人生は楽しかったのかどうなのかと。

『ひまわりの会 会員の友人 大津市在住 T.N』

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